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「越境」するドミニカ共和国発祥のポピュラー音楽、バチャータ

論文要旨: 本論文はカリブ海ドミニカ共和国発祥のポピュラー音楽であるバチャータの「越境」過程 について考察する。バチャータはかつて都市下層の人々と結びつき、主流社会の人々から は「…

論文要旨:
本論文はカリブ海ドミニカ共和国発祥のポピュラー音楽であるバチャータの「越境」過程
について考察する。バチャータはかつて都市下層の人々と結びつき、主流社会の人々から
は「低俗」な音楽と見なされていた。本論文の目的は、バチャータの実践者が都市下層の
地域的・階層的境界を超えてポピュラー音楽の「場」における「文化的正統性」を獲得す
るまでの過程を、音楽生産・流通・消費などの視点から明らかにすることである。
ドミニカ共和国における社会階層の形成の特徴は、政治や資本へのアクセスを持ってい
たごく少数の商業ブルジョアジーあるいは政治エリートと、自給自足の生活をしていた大
多数の自作農との間の経済的・社会的地位の圧倒的な格差であった。また教育や社会参加
など農民の社会上昇の機会がほとんどなかったことである。一方、ドミニカ共和国の首都、
サントドミンゴは1950年代以降、農業から工業への産業構造の変化もあいまって、急
激な都市部への人口集中がみられた。農村から都市への移民は、多くがバリオとよばれる
都市の貧困居住区に移り住んだ。これらの居住地は住民が地権者の許可を得ずに不法に占
拠した土地であることが多く、住居の強制撤去などが行われた。これらの都市下層民に対
し、都市のエリートは、都市文明社会を乱すものとして「侮蔑」のまなざしをなげかけた。
一方、都市下層民が増大し、主流社会が無視できない規模となると、主流社会はこれらの
人々を、既存の社会秩序の中へ統合しようとした。また都市下層民も、有利な土地所有の
権利や社会インフラの整備などをもとめて行政当局と交渉するようになった。このように、
大衆居住区であるバリオと主流社会との間には、絶え間ない交渉関係が存在するのである。
バチャータとは、元来庶民階層の人々が催した音楽の「宴」のことを指す言葉であった。
このような音楽の宴の場には音楽と踊りが不可欠であった。都市への新興移民は音楽など
の文化実践を通じて、バリオとしての共同体意識を醸成したのである。1960年の初め
ごろ、バリオの住民はキューバを始めとするラテンアメリカの様々な音楽をラジオを通じ
て聴き、ギターを使ってその演奏を模倣していた。1970年代に入りこのギター音楽に
バチャータという呼称が使われ始めるようになる。バチャータの音楽の特徴は、バリオの
言葉を使い、感情も露わに歌い上げるその演奏スタイルにある。バチャータという言葉は、
元来庶民階層の人々が催す音楽の宴を指しており、下層の人々への侮蔑的視点が内包され
ていた。このため、当時はバチャータ弾きと呼ばれることを嫌うバチャータミュージシャ
ンが出現した。また「低俗」なイメージから、バチャータは主要な放送メディアや音楽産
業から排除されていたのである。
1980年代前半には、都市下層の人口増加や、ドミニカの農村出身で米国へ出稼ぎし
た者による本国への送金による音楽消費の拡大など、バチャータの音楽市場が拡大する社
会的条件が整い、「アマルゲ」(バチャータの別名)ブームが生まれた。一方、音楽実践者
たちも、性的関係を暗喩させるダブル・ミーニングの手法を多用した「猥褻」なバチャー
タを多く作り、主流社会から「下品」として批判を浴びた。またメレンゲなど他ジャンル
をよく演奏していたアーティストがバチャータを演奏するようになった。また、地域のお
ii
祭りや家庭でのパーティなどの場にバチャータミュージシャンを呼んで演奏させるなど、
バチャータの演奏の場が広がった。このようにバチャータの音楽生産・流通・消費におけ
る変化があいまって、主流社会の人々はバチャータへ「侮蔑的」な視線を浴びせたにしろ、
注目するようになったのである。すなわちこの時期、バチャータ歌いは「場」への新たな
参与者として、注目を浴びたのである。
1960年代末から1970年代の前半にかけて、ヌエバ・カンシオンと呼ばれる社会
政治体制に対して音楽活動を通じて異議申し立てを行う社会運動がラテンアメリカ全体に
広がった。ドミニカ共和国においても、それまで民俗学者や知識人により無視されてきた、
農村や都市下層で実践されていた音楽実践を評価する運動を始めるミュージシャンが現れ
た。しかし当時このヌエバ・カンシオン運動の中でバチャータをドミニカ民俗の活動資源
として取り上げたグループはいなかった。
1980年代後半には、ヌエバ・カンシオン運動を通じてバチャータを知り、自らの音
楽活動に積極的に取り入れたミュージシャンがバチャータ風の曲を演奏し、ヒット曲を出
した。しかし彼らのバチャータは、従来のバチャータの音楽スタイルと大きく異なってい
た。歌詞のテーマは世俗的なものから社会問題などに変わり、演奏に使用される楽器もシ
ンセサイザーなどが多用された。これらのヌエバ・カンシオンの歌手たちは「客体化され
た」バチャータを歌うことで、それまでバチャータを好んで聴かなかった都市の中間層に
バチャータの名を広める役割を果たした。この流れを決定的にしたのが、1991年に『バ
チャータ・ロサ』というアルバムで米国のグラミー賞を受賞したファン・ルイス・ゲーラ
というミュージシャンである。このアルバムは米国を含むラテンアメリカ全域で大ヒット
し、ゲーラはバチャータの名を広めた。またドミニカ国内においても、ゲーラの音楽は詩
的で品位ある作品として中間層の評価を受けた。しかし、従来の音楽スタイルを固持する
バチャータ歌手からは、これらヌエバ・カンシオンの歌手たちが歌うバチャータは「本物
の」バチャータではないという批判も寄せられた。
ところが、興味深いことに、この新たなバチャータの誕生と時期を前後して、従来のバ
チャータの音楽スタイルであった、「都市下層の流儀」を正面に出したバチャータの流れを
汲む、新感覚のバチャータ歌手、アントニー・サントスが誕生し、大ヒット曲を生んだ。
曲のテンポも速くなり、よりリズミカルになったこれらのバチャータは、従来バチャータ
が放送されることがなかった主要な放送メディアを通じても流通するようになってきた。
また歌詞のテーマも従来の「酒」「女」などの世俗的な内容から、愛を歌いながらも、自分
の元を離れていく女性への思いやりにも配した歌詞などに代表されるように、女性からも
共感を得るような内容に変わっていったのである。このサントスの曲をきっかけに、それ
までバチャータを嫌悪してきた都市の中間層にもバチャータは受け入れられるようになる
のである。
ではこの新感覚のバチャータが広く中間層に受け入れられるようになった背景を考察す
る。ドミニカ共和国の「国民音楽」とされるメレンゲという音楽ジャンルが海外でヒット
iii
し、ミュージシャンや聴衆が、海外の音楽市場とのつながりを意識するようになったこと
である。メレンゲは20世紀の半ばまでには、独裁政権とよばれるトルヒーヨ大統領によ
り、ドミニカの舞踊音楽として、国民各層に浸透した音楽となった。そのメレンゲが19
80年代後半にはアメリカ大陸全土を席巻するようになった。このメレンゲの海外での商
業的成功により、ドミニカ国内の演奏家や聴衆は、自らの音楽に関する「国外からの目」
を意識するようになったのである。そのような中、ゲーラのアルバムがグラミー賞を受賞
したことで、バチャータに関する中間層の人々の意識が変わったと考えられるのである。
バチャータの音楽の特徴は、下層階層の生活実践を反映した歌詞と、ギターのレキント
などに示される音色の独特さにある。これらの音楽的特徴は、主流社会の人々にとって、
都市下層のハビトゥスを反映したものとして、嫌悪の対象とされてきた。しかし、これら
の特徴は、バチャータが「越境」していく過程において、他者にとって模倣することが困
難な、強烈な文化卓越の要素として作用することにもなった。
ブルデューによれば、趣味や嗜好といった文化的営為は特定の「場」の中で、ある基準
により序列化し評価づけされるとした。この序列付けのことを「文化的正統性」と定義す
る。「文化的正統性」は特定の社会空間における価値体系であり、それは長い歴史的プロセ
スを通じて構築されたものである。
バチャータが広く中間層に受け入れられたのは、文化エリートが主流社会の「文化的正
統性」に対抗する「負」の「文化的正統性」に着目したことで、主流社会がこの「負」の
「文化的正統性」を受け入れるようになったからである。
一方、1990年代には、ドミニカ共和国の政治体制が大きく変化し、都市下層民の社
会参加の機会も増え、主流社会と発言・交渉する機会も増えたのである。それはたとえば、
バリオを撤去する都市計画に対する住民運動の成功に現れている。バチャータの「越境」
は、ドミニカ社会の変化をも示しているのである。
iv
Kengo IWANAGA
Título: La música popular de la República Dominicana – bachata – la música
que ha cruzado los límites sociales y geográficos
Resumen:
El motivo de esta tesis es observar el proceso de cómo la música
llamada bachata, nacida en barrios populares, ha cruzado los límites sociales
y geográficos. La gente dominante consideró la bachata como una música
“vulgar” relacionada con la clase baja. La tesis se trata de revelar, desde el
punto de producción, distribución y consumo de la música, cómo los
bachateros han obtenido la propia “cultura legítima” dentro del “campo” de
música popular, cruzando los límites sociales y regionales.
La formación de estrato social en la República Dominicana se
caracteriza por la enorme diferencia entre poca burguesía económica o la
élite económica y el gran número de agricultores propietarios. A los
agricultores les quitaron las oportunidades de ascenso social como educación
y participación social. La capital de la República Dominicana, Santo
Domingo, fue testigo de la rápida concentración de la población desde 1950,
por razón de la transformación industrial desde agricultura a industria. Los
emigrantes del campo a la ciudad vivieron en los barrios populares de la
ciudad. Como la mayoría de los terrenos estaban ocupados ilegalmente sin
tener el permiso de sus dueños, la autoridad quitó las viviendas a la fuerza.
La élite urbana echaba la mirada de “desprecio” hacia la clase baja urbana
por desordenar la sociedad civil urbana. Cuando la clase baja urbana creció
hasta la sociedad dominante no pudo ignorar, trató de integrar la gente de la
clase baja al orden social existente. En cambio, la clase baja urbana intentó
negociar con la autoridad por conseguir mejores condiciones de propiedad y
arreglar infraestructura social. De esta manera, hubo una relación
continuamente entre la gente de barrio y la sociedad dominante.
La palabra bachata originalmente significa una fiesta celebrada por
la clase popular. La música y el baile eran indispensables en una “bachata”.
La nueva clase social de emigrantes surgida en la ciudad creó la conciencia
comunitaria de barrios a través de la música. Al principio de los 1960, los
habitantes de barrios escuchaban varios tipos de música latinoamericana,
principalmente de Cuba a través de radiodifusión, e imitaron su
interpretación tocando la guitarra. En la década de los 70, este tipo de
v
música con guitarra se empezó a llamar bachata. La característica de
bachata reside en una forma de interpretación utilizando las palabras de
barrios con el sentimiento abierto. La palabra bachata originalmente
significa la fiesta de la clase popular, que implica desprecio. Algunos músicos
no querían que les llamaran bachateros en aquella época. La bachata fue
excluida por la principal media de comunicación e industria musical.
En la primera mitad de los 80, surgió el auge del “amargue”
(amargue es el otro nombre de la bachata); las condiciones sociales para la
difusión de la bachata en el mercado musical se arreglaron tanto el
crecimiento de la población en los barrios populares como el aumento del
consumo musical gracias a remesas de los emigrantes desde campos
dominicanos a EE.UU. Los bachateros creían las canciones “obscenas”
utilizando palabras con doble sentido, por lo que la sociedad dominante las
criticó como “vulgar”. Los merengueros (músicos que tocan la música
merengue) empezaron a tocar bachata; la gente llamó bachateros a la fiesta
local o de casa para que le tocaran la bachata; estas actividades
contribuyeron la expansión de la bachata. La sociedad dominante empezó a
prestar atención a la bachata pero con mirada de “desdén”. La bachata se
prestó la atención como nuevo género en el sector de música popular.
Desde finales de los 60 hasta la primera mitad de los 70, el
movimiento social llamada Nueva Canción se extendió por toda
Latinoamérica, cuya actividad principal era la oposición y la protesta contra
la sociedad y política a través de actividad musical. En la República
Dominicana, aparecieron músicos que empezaron a valorar la práctica
musical en los campos y en los barrios urbanos que había ignorado por
folkloristas e intelectuales hasta aquel tiempo. Pero no hubo ningún grupo
de Nueva Canción que adoptara bachata como un recurso cultural de la
República Dominicana.
Pero en la segunda mitad de los años 80, aparecieron algunos
músicos que había conocido bachata a través de movimiento Nueva Canción
y empezaron a utilizar los elementos musicales de la bachata en sus
actividades musicales. Pero el estilo de estas canciones era diferente de lo de
la bachata tradicional. El tema de las canciones se cambió de algo “vulgar” en
los problemas sociales; los músicos introdujeron los instrumentos nuevos
como el sintetizador. Las cantantes de la generación de Nueva Canción
“objetivaron” la bachata a fin de popularizar el nombre de bachata en la clase
vi
media, que no la había preferido. El artista que determinó ese movimiento es
Juan Luis Guerra, un músico que ganó el premio Grammy con el álbum
“Bachata Rosa” en 1991. Este álbum consiguió un gran éxito en el continente
americano y Juan Luis Guerra hizo conocer todo el mundo el nombre de
bachata. En su país, las obras de Guerra recibieron la apreciación favorable
como poética y decoro por la clase media. Sin embargo, algunos bachateros
tradicionales criticaron que las obras de Guerra no eran bachata “autentica”.
Paralelamente al nacimiento de nueva bachata, apareció el nuevo
estilo de bachateros del corriente tradicional exhibiendo “la estética de
barrios”, y consiguieron los éxitos los artistas como de Antony Santos. Las
canciones tienen ritmo más acelerado. Bachata se empezó emitir en las
emisoras principales, donde anteriormente no solían poner este género. Los
típicos temas de las canciones, “alcohol” y “mujeres”, cambiaron por el tema
que incluso las mujeres sentía simpatía – el amor lleno de respeto para la
mujer que deja a un hombre, por ejemplo. Con esta canción, la clase media
urbana empezó a aceptar la bachata aunque antes le detestaba.
El fondo de esta aceptación de la música bachata entre la clase media
es como siguiente: los músicos y los oyentes empezaron a darse cuenta de la
relación con el mercado musical extranjero a través de los éxitos de la música
merengue, que considera la “música nacional” de la Republica Dominicana.
Merengue se convirtió como una música de danza nacional a mediados del
siglo XX por el presidente dictador Rafael Trujillo. En la segunda mitad de
los 80, merengue triunfó en todo el continente americano. Gracias a éxito, los
músicos y oyentes dominicanos empezaron a tener conciencia a su propia
música del país desde el extranjero. Mientras tanto, la conciencia musical de
la clase media cambió cuando el álbum de Guerra ganó el premio Grammy.
La bachata se destaca en la letra que refleja la vida diaria de la clase
popular y el sonido propio de la guitarra como “requinto”. Estas
características musicales reflejaron el habitus de la clase popular urbana,
por lo que la gente de sociedad dominante lo odiaba. Sin embargo, durante el
proceso de cambio de status de la bachata, estas características sirvieron
como un elemento fuerte de la distinción cultural, que nadie pudo imitarla.
Según Bourdieu, en un campo particular, las actividades culturales
como gusto tienen el orden y se evalúa según el orden del “campo”. El orden
se llama la “cultura legítima”.
La sociedad dominante empezó a aceptar la “cultura legítima
vii
negativa” – una idea contra la “cultura legítima” de la sociedad dominante –
y eso es la razón que la clase media aceptó la bachata.
En la década de 1990, el régimen dominicano se vio un cambio
significante, que provocó la ampliación de la participación social de la gente
popular urbano; ellos tenían más oportunidades de hablar y negociar con la
sociedad dominante; el triunfo del movimiento habitante contra la
planificación urbanística para retirar barrios, por ejemplo. El cambio de
status de la bachata representa el cambio de la sociedad dominicana
también.
viii
目次
序論………………………………………………………………………………………………………………………..1
Ⅰ ドミニカ共和国における社会階層と都市の形成………………………………………………………4
1 19 世紀後半以降の社会階層の形成過程……………………………………………………………..4
1) 大規模サトウキビプランテーションの開発時期(19 世紀後半)……………………..4
2) 米国による占領期(1916-1924)………………………………………………………………..6
3) トルヒーヨ政権期(1930-1961)………………………………………………………………..6
2 地域的境界の形成-サントドミンゴにおける都市形成…………………………………………7
1) サントドミンゴの都市形成………………………………………………………………………….7
2) 都市エリートから都市下層民へのまなざし…………………………………………………..8
Ⅱ バチャータの音楽「場」の成立と拡大………………………………………………………………13
1 バチャータの誕生………………………………………………………………………………………….13
1) 20 世紀前半の庶民階層の音楽実践……………………………………………………………..13
2) 都市下層バリオにおける音楽実践………………………………………………………………14
3) バチャータという呼称の成立…………………………………………………………………….15
4) バチャータの音楽産業………………………………………………………………………………17
5) バチャータという呼称がもつスティグマ…………………………………………………….18
2 バチャータの音楽「場」の拡大………………………………………………………………………19
1) 1980 年代の都市の拡大と都市下層民の社会上昇………………………………………….19
2) 1983 年当時の新聞記事にみるアマルゲブーム……………………………………………..20
3) 1980 年代のダブル・ミーニングを多用したバチャータの歌詞………………………21
4) バチャータに使われる楽器の変化と演奏の場の拡大…………………………………….23
3 「民俗」性を追求する社会運動………………………………………………………………………..23
1) トルヒーヨ体制後の社会混乱…………………………………………………………………….24
2) ヌエバ・カンシオン運動……………………………………………………………………………24
Ⅲ 「越境」するバチャータ……………………………………………………………………………………28
1 バチャータの「越境」過程………………………………………………………………………………28
1) テクノ・バチャータの誕生………………………………………………………………………..28
2) グラミー賞を獲得したバチャータ………………………………………………………………32
3)「境界」を超えたバチャータ………………………………………………………………………35
2 バチャータ「越境」の要因………………………………………………………………………………..36
1)「国民音楽」メレンゲに注がれる国外からのまなざし…………………………………..36
2) 1990年のバリオをめぐる社会変化………………………………………………………..38
3) 「文化的正統性」とバチャータ………………………………………………………………….39
結論………………………………………………………………………………………………………………………40
ix
注…………………………………………………………………………………………………………………………41
インタビュー協力者一覧………………………………………………………………………………………….44
参照文献……………………………………………………………………………………………………………….46
1
序論
当論文執筆のきっかけ
バチャータという音楽を始めて聴いたのは、1996 年に観光旅行で始めて訪れたドミニカ
共和国の首都であるサントドミンゴのあるクラブであった。当時筆者はバチャータについ
て知識もなく、田舎の人がよく聞いている音楽ぐらいしか情報がなかった。ところが驚く
べきことに、近年日本でバチャータを耳にする機会が増えてきた。東京には、バチャータ
の踊りを習うことができるダンス教室も存在する。バチャータはどのような背景をもつ音
楽なのか、きっかけはそのような素朴な疑問であった。
当研究を始めるにあたっての直接のきっかけは、石橋のエッセイに着想を得ている。こ
のエッセイは、ドミニカ共和国のバチャータとコロンビアのバジェナートを事例とし、そ
れぞれ自国のグローバルなアーティストが「底辺の民衆」や「特定の地域」と強烈に結びつ
いた音楽を、自らの音楽実践にたくみに取り込むことで、社会に存在した内なる壁を越え
一気に国境までも越えたという現象を描いたものである[石橋 2002b: 190- 202]。紙面が限
られたエッセイゆえに厳密な学問的検証は必ずしもこのエッセイではなされていない。バ
チャータを素材に社会学的・文化人類学的論考を加えたまとまりのある研究を執筆したい。
これが本論文執筆の主要な動機のひとつとなった。
またこのように「境界を超えた」音楽についての研究発表を行ったオーストラリアの研
究者フィリップ・ヘイワードの研究にも影響をうけた。ヘイワードはオーストラリアのカ
ントリー・ミュージックに関して、それまで「ダギー」daggy(オーストラリアの英語で「か
っこ悪い」の意)な究極とされた音楽が、近年の若いアーティストの登場により、都市に
住む若者からも支持を受けている事例を発表している [石橋2003]。
このように、「低俗」とされた音楽ジャンルが、地域的社会的「境界」を越え広く流通し
ていくという現象は、1990 年代に入りいくつものポピュラー音楽のジャンルでみられる。
たとえば、ブラジルのフォホーは、主流社会からはこれまで「貧しい者の音楽」または「低
俗なもの」とみなされていたが、1990 年代後半から2000 年始めにかけ、伝統的フォホー
に依拠した形で新たな音楽スタイルが創出され、ブラジル全土で流行した [草島 2004]。ま
たこの「越境」現象はラテンアメリカだけではなく、インドネシアのダンス音楽であるダ
ンドゥッドにもみられる [田子内 2000]。
このように「越境」するポピュラー音楽が世界各地でみられるようになった。これらの
現象を通低するものはなんなのか。この疑問も当研究をはじめる一つの動機となった。
今日、バチャータはラテンアメリカの音楽ジャンルの一つとして定着しつつある。たと
えば、ラテングラミー賞における音楽ジャンルのカテゴリーの一つとしてバチャータの導
入が検討されているなど、北米の音楽業界からもバチャータは確立された音楽ジャンルと
して認知されている。しかしこれまでカリブ海やドミニカ共和国の音楽について書かれた
文献の中でバチャータについて触れているのはごくわずかである。たとえば世界各国の音
楽を網羅した音楽辞典の中で、ドミニカ共和国の音楽について書かれた数ページにわたる
2
一節の中で、バチャータに関しては見出しすら付けられていない [Davis 1998: 845-863]。
このような背景も、研究を始める動機となった。
問題の所存ならびに研究方法
フランスの社会学者ピエール・ブルデューはその著書『芸術の規則』において、「場」の
概念を導入した。「場」とは様々な社会的位置の間の「客観的な諸関係が織り成す網の目」
[ブルデュー 1995b: 88]のことである。ブルデューは文学「場」の例を挙げ、作家、批評家、
編集者などある共通項によりくくられている集団を「場」の参与者として想定している。
ところでこの「場」という概念は、単に人だけではなく、作品、雑誌や出版社などの組織
なども含む相対的に自律した空間である。このような文化生産の「場」において、「場」の
参与者はいかに他人と差異化するか、つまりいかに自分を当該「場」の中に優位に位置づ
けるかを求めて争うことになる。この「場」における評価基準を「文化的正統性」と呼ぶ。
ブルデューはまた、著書『ディスタンクシオン』の中で、趣味のような個人の嗜好と一
見考えられる慣習行動でさえも、個人の属する階級、もしくは集団に特有の評価図式の体
系によって解釈され、それは一方、他の階級・集団に対する卓越化の要素とされるとして
いる。
ここで南田がロックの「場」をめぐる分析に導入した、「文化的正統性」の考え方につい
て触れる。南田は、社会空間での音楽芸術に関する「場」の力学に関して、ロック「場」
における「負」の「文化的正統性」という考え方を導入した。これはクラシック音楽など
の高級音楽芸術の「場」の「正」の「文化的正統性」に相反するものとされる。 [南田 2001:
58-61]。すなわち、南田によれば、ロック「場」の「文化的正統性」は「下方向の卓越化」
であり、高級音楽芸術の「場」における「文化的正統性」から離れれば離れるほどロック
「場」としての「負」の「文化的正統性」を獲得するとしている1)。
南田の論考は、音楽「場」における「負」の「文化的正統性」について言及している点
で注目に値する。当論文でも、このドミニカ共和国における音楽の「場」の「文化的正統
性」の変化に着目して論を進めていくこととする。
もう一つの視点は本論文の題目ともなっている「越境」である。本論文では、社会的に
構築されたある境界を超えることと定義する。
ラテンアメリカの社会は、植民地期以降、少数の支配者層が大多数の被支配層を統治す
る形が長く続いており、経済的格差も大きい。地域差はあるとはいえ、数的には総人口の
10%にも満たないごく一部の人間が、国民総所得の70%から90%を占めている。 [三田
1992: 278]この社会構造の発端は、植民地時代にこの地域が民族や人種の違いによる階層社
会であったことにも起因している。植民地行政は、階層制を基にして成り立っていた社会
であり、その残存は、現在も階層間や地域社会間(特に都市と農村)における格差として
形をのこしているのである。
しかしこれらの格差を乗り越えようとする都市下層民の運動も存在する。それは土地占
3
拠による土地利用の合法化など、支配者層との交渉を通じてである。また支配者層にとっ
ては下層民に対する侮蔑・排除のまなざしから、都市への人口集中や農村の「近代化」が
進むにつれ、いかにこれらの下層民を国民国家へ統合していくかが各国における政治課題
となった。
したがって、本論文で論じるドミニカ共和国のポピュラー音楽の「越境」過程を「境界」
概念を用いて論じることは、主流社会の人々と農村・および都市下層民との絶え間ない交
渉について考察するということにもつながるのである。以上から「境界」を用いた分析概
念は有効であると考える。
本論文では、主にブルデューの社会学、特に芸術「場」の概念に主に依拠しながらも、
カルチュラル・スタディーズや文化人類学的手法も随時取り入れることとする。なお、本
文中の写真はすべて筆者撮影によるものである。

………………………………………………………

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作者: 中国论文网

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