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西南戦争における西郷隆盛の役割りについて

西南戦争における西郷隆盛の役割りについて 要旨:西郷が西南戦争における作用に関する研究は少ない。本稿では、西南戦争における西郷の役割を中心に検討したい。これに関する研究はあまり多く…

西南戦争における西郷隆盛の役割りについて

要旨:西郷が西南戦争における作用に関する研究は少ない。本稿では、西南戦争における西郷の役割を中心に検討したい。これに関する研究はあまり多くなく、そして史料の制約と研究者の立場の違いから、定説には達せられていない。本稿では史料を基にし、各研究者の考えを踏まえ、自分の結論を下そうとする。西郷隆盛という人物と明治維新後の初期の歴史をよりいっそう理解してみたい。中国人の研究として、これまでに見られるものではない点、意義がある。

キーワード:西郷隆盛 西南戦争 敬天愛人 二面性

 

 

 

 

はじめに

西南戦争と西郷隆盛に関わる研究が多くある。西郷の作用について、大きく二説ある。①積極的に関与したという説。それがさらに正義説と野望説に分けられる。猪飼隆明(注:猪飼隆明『西郷隆盛-西南戦争への道』岩波新書1992)から見ると、西郷は「自分たちの行動は君側の奸を除くことであり、それは天皇を奉戴し、人民を辛苦から解放することなのだ」からと、積極的に戦争に関与すると考える。圭室諦成(注:圭室諦成『西郷隆盛』岩波新書1960)と田中惣五郎(注:田中惣五郎『西郷隆盛』吉川弘文館1980)は、西郷に反近代性があり、彼は薩摩武士団の頭領と仰がれ、その野望の担い手として反動的な戦争を引き起したと主張する。②受動的にあったという説。「いつまで士族たちをおさえてみても、政府は刻一刻とかれらを窮地に追い込んでくる。西郷はこう決意すると、自分の生命は諸君にあずける」と井上清(注:井上清『西郷隆盛』  中公新書1970)が考え、小島慶三(注:小島慶三『戊辰戦争から西南戦争へ 明治維新を考える』中公新書1998)もこう主張する。

西南戦争と西郷については、それぞれの研究が多くあるが、西郷の西南戦争に於ける作用に関する研究は少ない。本稿では、西南戦争に於ける西郷の役割を中心に検討してみたい。

 

1 西南戦争

廃藩置県後の明治政府の一連の近代化政策は一部士族層の社会地位と生活に激変をもたらし、全面的没落を引き起こした。内務卿大久保利通(1830-1878)を政府の中心とし、国家の方針を決める有司専制が立てられた。同じ士族出身の政府高官に不満のある鹿児島(旧薩摩藩)士族らは1877年(明治10年)、西郷隆盛(1827-1877)を中心とし、反乱を起こした。これを西南戦争を称す。

1.1概略

明治10年(1877年)1月、大久保は政府に抗し続ける鹿児島を改革する決意のもと、先ず、鹿児島草牟田の火薬局と磯の造船所にあった弾薬や武器を大阪に移そうと図った。

同時に、私学校の生徒達を思想的に攪乱し、仲間同士を離間させることを画策する一団を東京から送り込んだ。

大久保が当時の警視庁大警視・川路利良(としなが・薩摩藩郷士出身)に送らせた一団は全員が鹿児島の「郷士」出身者で、私学校に属する「城下士」に対して強い対抗意識を持っていた。

大久保のこうした処置に憤った私学校の生徒達は火薬庫を襲撃して移送中の武器・弾薬を奪い、政府から送られてきた一団を捕らえて西郷暗殺計画を自白させた(後に、暗殺計画はなかったという判定が下った)。

騒擾事件の連続に、ついに西郷も私学校の生徒達を抑えきることが出来ず、青年達の声に担がれて西郷はついに立ち上がり、明治10年2月15日、西南戦争へと突入した。

西郷の兵力約3万のうち、1万3千が私学校員で占められた精鋭であった。

西郷は熊本鎮台のある熊本城を攻めた。国民皆兵制度によって誕生した農民・町民兵士が守る熊本城を、旧薩摩藩の士族で組織された軍隊が攻めるのだから、早々に城は落ちると思われた。

しかし、熊本城は持ちこたえて2ヶ月後に政府軍が入城、兵力・武器・弾薬の補給にまさった政府軍が優勢になった。

熊本城、田原坂、山鹿での激戦の後、西郷軍は退却を余儀なくされ、政府軍に追われて9月に鹿児島に戻り、城山に布陣した。

政府軍の攻撃に追い詰められた西郷は、城山の岩崎谷に本陣を構え、最後の5日間を西郷洞窟で過し、9月24日、自刃した。

享年49才であった。

1.2背景

西南戦争はその背景がつぎのようである。

明治9年(1876年)3月に廃刀令が出、8月に金禄公債証書条例が制定されると、士族とその子弟で構成される私学校党の多くは、徴兵令で代々の武人であることを奪われたことに続き、帯刀と知行地という士族最後の特権をも奪われたことに憤慨した。10月24日の熊本県士族の神風連の乱、27日の福岡県士族の秋月の乱、28日の萩の乱もこれらの特権の剥奪に怒っておきたものであった。11月、西郷は日当山温泉でこれら決起の報を聞き、「前原一誠らの行動を愉快なものとして受け止めている。今帰ったら若者たちが逸るかもしれないので、まだこの温泉に止まっている。今まで一切自分がどう行動するかを見せなかったが、起つと決したら、天下の人々を驚かすようなことをするつもりである。」などを記した書簡を桂久武に出し、「起つと決する」時期を待っていることを知らせた。この「起つと決する」が国内での決起を意味するのか、西郷がこの時期に一番気にかけていた対ロシア問題での決起を意味していたのかは判然としない。

一方、政府は、鹿児島県士族の反乱がおきるのではと警戒し、年末から1月にかけて、鹿児島県下の火薬庫から火薬・弾薬を順次船で運びださせる。

大警視川路利良らが24名の巡査を、県下の情報探索・私学校の瓦解工作・西郷と私学校を離間させるなどの目的で、帰郷の名目のもと鹿児島に派遣する。

これに対し、私学党は、すでに陸海軍省設置の際に武器や火薬・弾薬の所管が陸海軍に移っていて、陸海軍がそれを運び出す権利を持っていたにもかかわらず、本来、これらは旧藩士の醵出金で購入したり、つくったりしたものであるから、鹿児島県士族がいざというときに使用するものであるという意識を強く持っていた(注:『薩南血涙史』)。 また、多数の巡査が一斉に帰郷していることは不審であり、その目的を知る必要があると考えていた。なお、まだこの時点では、川路利良が中原尚雄に、瓦解・離間ができないときは西郷を「シサツ」せよ、と命じていたことは知られていなかった(山縣有朋は私学校党が「視察」を「刺殺」と誤解したのだと言っている。明治5年の池上らの満洲の偵察を公文書で「満洲視察」と表現していることから見ると、この当時の官僚用語としての「視察」には「偵察」の意もあった)。

これは西南戦争が爆発した引き金となったそうである。

 

2 西郷隆盛

2.1人物

西郷隆盛(1828年1月23日- 1877年9月24日)は本名が隆永で、日本の武士(薩摩藩)、軍人、政治家である。薩摩藩の盟友大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。

西郷隆盛は西郷吉兵衛隆盛の長子である。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲である。隆盛は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったからである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門などの変名も名乗った、本名は8代目西郷吉兵衛隆永と言う。

西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟西郷吉二郎は戊辰戦争で戦死した、三弟西郷従道は明治政府の重鎮で、四弟西郷小兵衛は西南戦争で戦死した。

西郷家は薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、再び、沖永良部島に流罪にあう。しかし、家老小松清廉や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。勝海舟との降伏交渉に当たっては、新政府の後ろ盾となっていたイギリスが、江戸湾を拠点とした貿易に支障がでることを恐れて江戸総攻撃に反対したため、西郷隆盛をはじめとする新政府はイギリスの求めに応じ、江戸総攻撃を中止した(江戸無血開城)。

その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。

位階は正三位。功により、継嗣の寅太郎に侯爵を賜る。

 

2.2思想と政策

2.2.1「敬天愛人」という思想

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作者: 中国论文网

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