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心的概念が意味しているもの

日语论文:心的概念が意味しているもの I.問題 「こころ」やその構成要素であると思われるような人の内的過程や状態を意味する概念,つまり心的概念を人間行動の原因論的説明に用いることは…

日语论文:心的概念が意味しているもの

I.問題

「こころ」やその構成要素であると思われるような人の内的過程や状態を意味する概念,つまり心的概念を人間行動の原因論的説明に用いることは,人の日常生活において一般的であると同様に,心理学においても古くから一般的であった.そうした心的概念としては「精神」「意志」「意識と無意識」「パーソナリティ」「欲求」「動機づけ」「認知」「記憶」などがある(注1).「こころの科学」という心理学の一般的イメージからいえば,そうした概念を用いてこころを理解し,人間の行動を説明する「科学」(注2)こそが心理学であると考えるのが一般的ですらあるかもしれない.

しかし,こうした心的概念を用いて行動を説明することの根拠は,実は非常に脆弱である.多くの心的概念は人の内部にあり行動に因果的に先行すると仮定されているが,そうした内的過程の存在は観察された行動や行動の規則性から類推されているに過ぎず,ほとんどの場合客観的に観察された事象,つまり外的なものに還元されてしまう.実際,心理学では心的概念に操作的定義が求められることが多く,それなしには測定や実験といった「科学的」方法が適用できないとされるのだが,操作的定義とは心的概念を観察可能な事象に還元することなのである(注3).

観察された行動から心的概念を抽象化し,それを行動の原因とみなすことには論理的な根拠はなく,形而上学に陥る危険を伴う.そして,こうした心的概念による行動の説明は同義反復に過ぎず,科学的説明として無意味であることは,著者がこれまで繰り返し指摘してきたことである(注4,5).心的概念を人間行動の科学的説明に用いることは,「霊魂」「神」「運命」といった超越論的な概念から事象を説明することと同様の問題をもつといえよう.

心的概念のこうした性質に対して徹底的な批判を加え,それが無意味であることを論証し,実証してきた最大の勢力は行動主義である.そして,行動主義の心理学は人の行動を環境からの刺激と生体との相互作用の結果として位置づけ,客観的に観察可能な環境と行動との関係の分析から,心的概念を用いずに人間行動を説明(注6),予測,制御することに成功している.

もちろん,行動の決定には環境と相互作用する生体も関与するから,内的過程の存在が否定されるわけではない.しかし,そうした内的過程は物理的な実体であり,より厳密な科学的方法によって研究され得るという点で,形而上学的な基盤しかない心的概念とは別のものであるべきだろう.「認知過程」などの概念も本質的には心的概念であり,それが内的な実体とじかに対応すると考えることには根拠がない(注7).

真に内的であり,環境と相互作用する生体側の要因であるのは神経生理学的な要因だろう.しかしそれにアクセスすることは方法論的にも,能力的にも徐々に心理学者の手を離れる.また,実際の人間行動の説明という目的からいえば,神経生理学的な過程は環境と行動とを媒介する過程に過ぎず,行動の説明力という点で環境刺激そのものには遠く及ばない.人の行動を説明するために内的な神経生理学的過程にこだわることは,うまい料理がなぜできたかという説明として電子レンジの構造をくわしく述べるようなものである.ふつうはどのような材料をどのように準備し,電子レンジをどう操作したかを説明するだろう.

心理学が,他の学への優位性を保ちながら現在の心理学者の多くが定義するような「人間行動の科学」としての科学性を持つためには,行動の説明に心的概念を使用したり,神経生理学的過程にこだわったりしないで,心理学者が科学的で独自な方法でアクセス可能な環境と行動との関係を行動主義的に分析していくのが最良の道だろう.しかし,こうした考えはいまのところそれほど多くの心理学者に受け入れられてはいない.心理学の出自や歴史から考えて,説明概念としての心的概念の廃止,内的過程との決別と住み慣れた「こころの科学」からの脱却は天動説から地動説への変換に匹敵するパラダイム・シフトであり,まだ相当の紆余曲折と時間を要するだろう.

いずれにしても心的概念を科学的概念として用いることができないのは明らかなのだが,では,そうした概念を一般の人々や多くの心理学者が古くから使い続けてき,これからも使っていくと考えられるのはなぜなのだろう.これは,心的概念が科学的概念として失格だ,ということとは別の問題であり,かつ心理学的な検討を要する問題でもある.

心的概念が使われ続けるのは,それがわれわれの生活においてそれなりの意味(あるいは情報価)を持ち,心的概念の使用がなんらかの利益を生んでいるからだと考えることができる.心的概念を用いることで,なにかが捉えられ,伝えられていることは間違いのない事実であろう.そこで,この論文ではそうした「心的概念のほんとうの意味」について考え,それが心理学的な研究や臨床的活動にどのような含意を持つのかを検討してみたい.

II.心的概念は人の歴史のメタファーである

自分が心理学者としてでなく日常生活において心的概念を使っている場面(注8)で内省したり,身近な他者が心的概念を用いる態度を観察したりすると,興味深いことに気づく.われわれは心的概念を自分や他者の内部にある(と仮定される)ものを指すために用いてはいるけれども,その「内部」というのは物理的な「体内」というのとは微妙に違う感覚なのである.

こころはたしかに自分や相手の中にあるが,それは相手の体内の具体的な器官や臓器と対応するわけではないし,脊椎や脳の中の中枢神経系のはたらきに還元されるわけでもない.日常感覚では,こころはそうした物理的実体とは無関係に,人の中に「存在」しているのである.こころが特定の臓器の中で活発に活動しているとか,血管の中を流れたり,神経系を伝わって移動しているところを想像することは難しい.また「自分のこころはどこにあるか」という問に対する答えも,「自分の内部にある」という点以外では大きな個人差を示す.「頭の中」「目の後のあたり」「胸のあたり」など,実に人それぞれである.

つまり,われわれにとってこころが内的であるというのは,物理的に人の体内にあるというわけではないが,とにかくなんとなくその人の中にあるとしか感じられないという意味で,である.では,こころはどういう意味で人の内部にあるのだろうか.

1.観察できない環境要因の心的概念への投影 先にも述べたように,人の行動は環境の影響を受けた生体の反応として生じるもので,実際には人の行動の原因のうち相当の部分は過去の環境からの刺激(つまり経験)に帰されるものだし,真に内的な要因として環境と相互作用するのは心的ではなく生理的・物理的な実体である.その点で心的概念による行動の因果論的説明は科学的な根拠をもたない(注9).

しかし,心的概念による行動説明を行なっているわれわれが,そうした事実にまったく気づいていないわけではない.自分がいまこういう人間であり,こういう行動をしていることには,自分の遺伝的・生理的特質だけでなく,自分が生まれてからこれまでの人生におけるたくさんの経験,周囲の物理的・社会的環境からの無数の刺激が反映されていることを,われわれは漠然と知っている.自分の行動がすべて遺伝によってプログラムされていると考える人はいないだろう.人は誰でもある程度は素朴な環境論者なのである.

しかし,そうした環境からの影響は,いま自分がしている行動,あるいは目の前の他者がしている行動よりも過去に生じたことである.過去の事象は文字どおり過ぎ去ってしまっており,もはや存在しない.いま現在で存在するのは,過去の環境事象の影響を受けて行動した行為者と,行動そのものだけである.こ

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作者: 中国论文网

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